なつかしくてせつない場所
ボーカルの仁美さんとはネットの掲示板で知り合った。日英バイリンガルの彼女の日本語キャラはなぜか強烈で、最初は正直言って本意もキャラクターもわかりにくかった。ところが英語で書かれた自作の詞を見せてもらったら、いつも彼女が地団太踏むように(?)訴えていたことが、とてもシンプルに表現されている。そうか……こういうことが言いたかったんだ。はじめて素のままの彼女と出会った気がした。
個人的に好きなのは、"Where I was yesterday afternoon"。そのできたてほやほやを読んだときには、なんともいえない郷愁をおぼえた。こういう体験、あるよ。夢でどこかとてもなつかしいところにいって、なつかしい人々に会っている。でも起きると、ぼんやりと記憶の彼方にいってしまう。それが歌として歌われると、そのせつなさもなつかしさも、私の中でリアルタイムに動き出す。動き出し、歌の場に解き放たれて、官能的な体験に変わるのだ。
さて、もう1曲。CDタイトルにもなっている"Suspended & Homebound"は2004年の夏の歌。その時期、私は体調を崩し、精神的にも最悪な状態だった。夏の暑さ、台風、地震……ひたひたとおしよせる不安感。安住の場から切り離されたような焦燥感。その感覚はありありと共有できる。というか、自分自身がまさにそんなふうに生き、感じていた。家に引きこもっているという現実もぴったり同じだった。
ところが、"homebound"という言葉がピンと来なかった。英語に慣れていないせいかもしれない。「故郷」というようなイメージのあたたかい場所があって、実は今、その場所に向かっているんだという気づき……そのあたりが、私には実感としてとらえにくかったのだ。
ただ、音はとても懐かしい。昔、繰り返し聴いたカントリーブルースを思い出す。将来も行くあてもない人々が、どこか素晴らしいところに行くんだと、いつもその同じ場所で歌っている――やぶれかぶれの明るさというのか。いや、居場所を失った先人達の歌った、すべての歌に感じられるノスタルジーといった方がいいだろうか。
sasaraの歌は、もちろんブルースのように泥臭くはなく、さらりと軽い。透明な場所に向かって開かれているような清涼感がある。でも、やっぱり私はそこに、そういう種類の歌に共通してある本源的なパラドックスを感じてしまう。
人はいつも心のどこかで「帰るべき場所」「すべてがある永遠の視座」を希求しているけれど、実のところ、過ぎ去る時間の中でしか、この世界を意味あるものとして生きることができない。むしろ私は、その究極のパラドックスに、有限な存在として生きる栄光があるように思う。
そう考えると、"homebound"って、なんて矛盾に満ちた、せつない言葉なんだろう。でも、それを声に出して歌ったとき、歌は、矛盾を矛盾のままで高らかに宣言し、解放してくれる。それこそが、有限にしか生きられない人間が、その肉体を通して、人と、世界と、自分と、そして「永遠」と、結ばれる瞬間だ。
どこか別の場所ではない。あたたかくてなつかしいのは、今、歌っている、この場所。つなわたりのような、でもそこにいるべき場所だ。