Production Notes(制作秘話)

2. Music was one thing I could live without(by sasara♀)


Sasara♀にとって、音楽とは「無くても生きていけるもの」だった。

巷にあふれる音楽のほんとどは耳障りだし、ミュージシャンやジャンルの名前も知らないので、周囲の話についていけない。カラオケも好きじゃないから、未だに一度も行ったことがない。我慢してその種の場所に居ようとすると、どんどん不機嫌になってくる。

だからと言って歌が嫌いな訳ではなかった。幼少の頃から、どこかで聞き覚えた軍歌や懐メロを口ずさんでいた。大義のために命を捧げる戦前・戦中の日本人の潔さにあこがれていたのだろうか。「玉砕願望」は、かなり長いこと彼女の根底にあった。

高校時代から演劇をやっていた。日常では「濃い」「熱い」と形容される彼女のエネルギーのはけ口として向いていたのだろう。しかし女子高を卒業すると、演劇も窮屈な世界になった。男勝りで色気のかけらもない彼女に適した既成の「女役」というものが、当時の日本の演劇界には見当たらなかった。

その代わりにのめり込んだのが、大学時代から始めたパントマイムだった。身体一つで老若男女を演じ分け、動植物や無生物に変身するには、ユニセックスな方がいい。そして何より、言葉を介さない表現手段に魅了された。国境、世代、障害の有無を越えてコミュニケーションできること、そして、気持ちが通った時に身体が覚える〈得も言われぬ感覚〉を、追い求めずにはいられなくなったのだ。

大学卒業後、アメリカのマイムスクールに留学。その2年後には地元劇団のオーディションに合格し、かの地でプロデビューを果たした。欧州にも遠征し、文字通り国境を越えた交流ができるはずだったが、〈あの感覚〉からはどんどん遠のいていった。

オーディション制の米国演劇界は、一つの役を得ても次の仕事が保証される訳ではなく、役者は常に自分を磨いていなければならない。同僚の俳優達は、ボイストレーニング、ダンスレッスン、演技の個人指導等々に忙しく、彼女も東洋性をアピールしてポジションを確保すべく、日本武道、中国拳法、能楽, etc.稽古事に明け暮れる日々だった。

そして、あるとき疲れた。習った技を披露するために舞台に立っているのではない。けれど、いつも「次の仕事」が頭をよぎる現場で、〈あの感じ〉は隅に追いやられるばかりだ。それを求める場は、虚構の世界ではなく、日常であるべきなのか……

ほどなく彼女は母になり、生まれ故郷の日本の田舎町に戻り、ごくフツーの暮らしを始めた。Sasara♂の趣味が音楽であるらしいと、結婚前にうすうす感づいたが、徹底して黙殺した。何しろ音楽が嫌いだし、素人の中途半端な表現行為ほど見ていて不愉快なものはない。やめろとまでは言わないが、できれば自分の目に触れない場所で密かに楽しんでもらいたい……

だが、こういう屈折した感情は、傍からは見え見えのものがあるらしい。Sasara♂は、妻の冷たい視線を右に左にかわしながら、何らかの機会をうかがっていたようだ。

長男が小3の時、「うたごえ集会」という行事を観に行った。子供たちのたどたどしくも一生懸命な歌いぶりに心が洗われ、親バカ丸出しで感動し、家に帰るなり夫に熱く語りかけた。「私にとっての音楽って、まさにあれなのよ! 上手い下手じゃなくて、つまり、何て言うか……」

するとSasara♂は、おもむろにギターを取り出し、Le Coupleの「ひだまりの歌」を演奏し始めた。思わずノッて歌詞を口ずさんだが、絶望的に音痴で声量もない……「私らの場合は『ひだるま(家計が)の歌』やんけ!」とオチをつけたものの、そのあと犬の散歩をしながら、今まで感じたことのない喜びに満たされれている自分に驚いた。偶に夫婦でデュエットする老後を思い浮かべ、「何て幸せな絵図なんだろう」とマジで思ってしまったのだ。

後にまさか自ら作詞することになろうとは思ってもみなかったが、あの「喜び」は、サーヌヨムウス[注2]の片鱗であったに違いない。

注2:徐々に明らかになっていくでしょう。

1. ささらソングの成り立ち

2. Music was one thing...

3.きのう行ったところ(その1)

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